こんにちは、ピカです。
昨今、知識量よりも知識を作っていかに考えるかが問われるような感じがする。
実際にそうであろう。
一生懸命勉強することは悪いことではない。
しかし、無理をして勉強をしていると辛くなってくることがある。
勉強をスムーズに進めるためには、勉強に興味を抱くことなのではないか。
段々と興味を持ち、勉強し続けていれば辛いことが減り、楽しくなってくるのではないか。
最初は辛かったけれど、興味が段々と楽しくなってきたという人は多かれ少なかれ成果が出ると私は思う。
こんにちは、ピカです。
昨今、知識量よりも知識を作っていかに考えるかが問われるような感じがする。
実際にそうであろう。
一生懸命勉強することは悪いことではない。
しかし、無理をして勉強をしていると辛くなってくることがある。
勉強をスムーズに進めるためには、勉強に興味を抱くことなのではないか。
段々と興味を持ち、勉強し続けていれば辛いことが減り、楽しくなってくるのではないか。
最初は辛かったけれど、興味が段々と楽しくなってきたという人は多かれ少なかれ成果が出ると私は思う。
こんにちは、ピカです。
「考える」とは、「自分で」行う行為。
自分で考える。
あたりまえのことであるが、ここが大切。
考えるのは親でもなければ、上司でもない。
つまるところ考えるのは自分なのである。
考える作業は、その人の生い立ちや経験、記録、本人が生まれもった中で得たあらゆる情報や学びを総動員して行う極めて個人的なもの。
そもそも前提が違う。
考えが違う。
好みが違う。
「考える」とは個人的なものなので、自分の生まれてきた土壌の上に「考える」という行為がある。
自分の意志で一定のゴールに向かっての思考の積み重ねていくことなのではなかろうか。
想像するときは、まさに未来を想像することではなかろうか。
時間を進めること、それは未来を想像することにつながる。
また、時間を戻すことで、過去を振り返ることができる。
何が正しいか、何が違っているかではなく、時間軸を操作することによっていろいろな見方が見えてくることを言いたい。
その想像力を持てるか持てないかによって大きく違いがでてくる。
時間軸を操作することによって過去の出来事を参考に、未来を想像する。
時間軸の操作は大きな可能性を秘めているのではなかろうか。
イメージからアイデアが生まれたり、未来像が明確になったり、今何を行うかがわかったりもするだろう。
想像力は自由自在である。
しかし、今ではインターネットで調べたりすれば、分かった気になってしまう。
また、ストリートビューを見れば、その場所に行った気になってしまう。
だが、実際に現地に行ったりするとまた違った印象を受ける。
視覚では捉えられても、味覚や嗅覚は伝えられない。
つまり、ひとつの情報だけで分かった気にならないようにすること。
現地に行ってみて、見たからこそ知った圧倒的な現実感や体感が次の想像力に繋がるのではなかろうか。
物理的に高いところに昇って周りを見てみるのもよいのではないか。
「物理的に視点を変える」ことで、考えが停止してしまったり、想像がつかなかったりしたときにおすすめしたい。
しかし、どうしても固定観念にとらわれているので、劇的に変えることは難しい。
いろいろと視点を変えることで、見えていなかったことが見えてくることがある。
私はウォーキングが好きなので、時々ウォーキングをする。
ウォーキングをしていると何かと発見がある。
いつもと違った道をウォーキングすることで、あんな店があったのかとか、この工事現場には何ができるのかとかいろいろと発見はある。
視点を変えることで、新しい発見、想像が生まれてくるのではなかろうか。